家光の死後その遺命により、甥の第4代将軍・家綱の補佐役として幕閣の重きをなし、文治政治を推し進めた。末期養子の禁を緩和し各藩のお家断絶を緩和。会津藩で既に実施していた先君への殉死の禁止を幕府の制度とした。大名証人制度の廃止を政策として打ち出した。玉川上水を開削し江戸市民の飲用水の安定供給に貢献した。
明暦3年(1657年)の明暦の大火後、焼け出された庶民を救済した。主要道の道幅を6間(10.9m)から9間(16.4m)に拡幅した。火除け空き地として上野に広小路を設置し、芝と浅草に新堀を開削、神田川の拡張などに取り組み、江戸の防災性を向上させた。また、焼け落ちた江戸城天守の再建について、天守は実用的な意味があまりなく単に遠くを見るだけのものであり、無駄な出費は避けるべきと主張した。そのため江戸城天守は再建されず、以後、江戸城天守台が天守を戴くことはなかった。
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この時代の幕閣(正之の他、酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋など)全般に言えることではあるが、幕政において400万両超の蓄財を背景にして福祉政策・災害救済対策・都市整備などに多くの支出を差し向けたが、それがために幕府は急速に財政難へと陥っていった。正之の死後、第5代将軍となった綱吉により荻原重秀の登用など財政の再建策が講じられた。